7 日野原さんをしのんで

今年もあと数日となった。 多くの方が亡くなられたが、特に日野原先生とは思い出が深い。大変素晴らしい方であり、誠に惜しい方だった。105歳で亡くなられるまで、その社会への貢献は非常に大きいものがあった。つまらない思い出を一つ。詳しくは省略する。「そんなことを言うからダメなんだよ」と、ニコニコしながらたしなめられたことがある。医学部卒業後の、研修の在り方についての話である。無論遠い昔の話だが。「こちらが正田家の」と、今の皇后さまのお母様を紹介されたことがある。大変上品な方で、長く記憶に残った。

 病院長を引き受けられた時の事である。たまたま旧友の、聖路加の医長と聖路加前の道路を歩いていた。日野原さんとばったり出会った。「この4月から病院長をすることになりました」と言われる。私は「失礼ですが、先生は何歳におなりですか」と尋ねる。「80歳になりました」との答えである。80になり、病院長を辞める人はいくらもいる。新たに病院長を引き受ける人はまずいない。大丈夫かな?と思ったが、実際は立派に病院長の職を全うされた。その中には、地下鉄サリン事件の患者さんの受け入れも入っている。地下鉄での突然の多数の中毒患者の発生、それに対する見事な対応、日野原さんが病院長在任中の出来事だった。今はかってのホノルルの我が家の庭で、日野原さんを迎えてのバーべキューの懐かしい一コマを思い出し、この偉大なリーダーのご冥福を祈るのみである。 

6  教育勅語について思うこと

 教育勅語というと、タイのバンコックを思い出す。バンコックで、日本語で案内してくれるガイドさんに出会った。元来は台湾の人である。素晴らしいガイドさんで、何十年か経った今でも、鮮明に思い出されるガイドさんである。一日ガイドをお願いし、タクシーで空港に向かうこととなった。そのガイドさんは、タクシーの番号を書き取り、空港まではこれぐらいの料金であり、もし法外な料金を要求されれば、私の方に連絡してほしい。このタクシーの番号を書き取ったので、すぐ会社と交渉してあげるから、ということだった。観光の途中で休憩し、一緒に冷たいものを飲もうといっても、お客さんに頂くのではなく、自分で買って飲みますから、ということだった。観光のガイドが懇切丁寧であったのは、言うまでもない。 

 さて次が修身教育と教育勅語。そのガイドさんに、あなたは大変立派で、これまでそんなガイドさんに会ったことがない、というと、その人は、自分は子供のころ日本の修身教育を受けた、教育勅語も学んだ、だから一切悪いことはしない、という返事だった。今は日本の本屋さんでは、子供の万引きが大変多いという。学校での教育も、学級崩壊が普通のことのようである。日本の将来は今の子供たちが担う。かっての日本の修身教育、教育勅語も、頭から否定するのではなく、良い点は取り入れ、将来の日本がつぶれないよう、次世代の教育に取り入れるよう、考えて行きたいものである。

5 幸村と勝と どちらが偉い? (真田幸村と勝海舟)

 NHKの大河ドラマ、真田丸は、ずいぶん評判が良かったようである。明治維新が成立してかなりの年月がたった頃、勝海舟と真田幸村と、どちらが偉いか、議論があったそうである。考えてみれば両者には共通点がある。両者とも、圧倒的に優勢な敵軍に囲まれ、方や大阪城、方や江戸城を死守するよう運命づけられていた。したがって両者を比較し、その優劣を論じるのも、自然な成り行きだったかもしれない。

 両者の運命は、周知のように全く異なる。海舟は江戸城を無血開城し、明治になっても枢密顧問官などを務め、世の注目される人物の一人であった。運命を変えた大きな理由は、海舟は慶喜から、陸海軍の全権を任されていた。幸村は、上に淀君と秀頼がおり、自分の思いを実行できる立場にない。その時の議論を記した者が、「淀君を殺しでもすれば話は別だが、臣下としてそれはできぬから、何とも致し方ないーー」という表現がある。

 海舟は、自分の方が幸村よりよほど上だと思っていたようである(氷川清話、海舟座談)

しかし彼を批判するものの言によると、海舟は相手がつまらぬ奴で、話を続ける価値がないと思うと、相手に背中を向け、応対をやめたそうである。それだけでも幸村に劣る、と批判されたそうである。                                   

4  小津安二郎 監督

 前回と前々回、俳優さんのことを書いたので、今回は監督さんのことを書いてみたい。どうしてだろうか。いつ頃からか、小津監督の作品が非常に好きになった。そして主な作品を大体集めた。いまだビデオの時代であり、少しずつ集めていった。小津さんの何気ないような作品が、心にしみる作品だから不思議である。小津映画の常連の女優さんの一人が、古き良き日本の家庭は、今の日本にはなく、小津映画のなかにのみ見ることができる、と語ったのが印象的であったし、実際その通りだと思う。小津さんの映画は海外で高く評価され、かなり前だが、ニューヨークで連続上映された(生誕100年記念?)。ある年には、世界で最も優れた監督(作品?、東京物語?)に選ばれている。

 一つのつまらぬ疑問は、小津さんは、なぜ原節子さんと結婚しなかったのだろうか、という疑問である。当時の映画界では難しかったのだろうか。

 最後に国民的ヒーローになった俳優さん、その名前がついた空港の話。米国の西海岸での会議に出席するため、その近くの空港を探した。一番近かったのは、ジョン・ウェイン エアポートだったと思う。ジョン・ウェインは、かっての西部劇のヒーローである。オレンジ・カウンティ(オレンジ郡、オレンジで有名)にあり、そこのオレンジのおいしさはいまだに忘れがたい。

3 三船敏郎さんと真実のすがた

 前回俳優さんのことを書いたので、続いて俳優さんの事を書いてみたい。三船敏郎さんは、かっては日本を代表する俳優さんの一人だった。私は映画から受ける印象で、三船さんは普通の体格の方、あるいは大柄な方だと思っていた。ある日、海外での出来事だが、三船さんに家内がサインをしてもらった。驚いたことに、家内と背の高さは変わらない。熱心に汗をかきながらサインをされた。家内は普通の体格であり、映画の中で三船さんが大きく見えるのは、それなりの工夫、カメラのアングルを考えるとか、足台を使うとか、工夫があったのだろう。

 世の中、実際とは違ったイメージが作られる可能性がある。話が飛ぶが、日本が講和条約を結び、敗戦後の占領状態から脱しようとするとき、講和は全面講和でなければだめだ(ソ連などを含んで)と主張し、それに踊らされる多くの若者がいた。当時の東大総長、南原さんも全面講和を主張する一人だった。全面講和でなければ、戦争の危険があるという。もしそれらの主張が受け入れられていれば、日本は戦後70年たった現在でも、占領状態のままだろう。民衆が、国民の少なくとも過半数が、正しい判断をする、民主政治において、最も必要なことである。

2 二谷 英明 さん と 英語

 ホノルルのあるホテルでの思い出である。元来はコンドミニアムとして、日本的に言えばマンションとして建てられたが、各ユニットが一軒の家が買える位の価格なので、かなりのユニットが売れ残ったようである。場所はワイキキのベストの場所にある。地の利を生かして、売れ残った部屋を集めてホテルにした。したがって同じ階でも、ホテルの部屋と、マンションのユニットが入り混じって存在する。きわめて珍しい建物だった。

 二谷さんが、奥さまとお嬢さんと、そばの海岸を散歩するのを見かけたこともある。ある朝、一階のレストランで朝食をとっていると、すぐそばで二谷さんが、ローカル(現地)の方と食事をしていた。驚いたのはその英語のレベルである。大体日本人は英語が下手だが、今までに聞いた日本人の英語では、ベストだったかもしれない。彼が英語の学校を開いている、そう聞いたのは、それからずっと後のことであった。

1 武相荘と白洲次郎と新憲法

 新憲法と書いたが、戦後の新憲法ができて、半世紀以上が過ぎた。 吉田内閣の松本国務大臣が、米軍の民生局の代表に、日本側の憲法草案を説明する。それを遮って米国側作成の、憲法草案が示される。松本大臣は憤慨して退席、白洲次郎氏などが、米軍作成の日本の新憲法を、日本語に訳す。Emperor 天皇 は、日本の 「Symbol シンボル」と書かれており、どう訳したらよいか悩む。辞書に、「象徴」という言葉を見つけ、天皇は日本の象徴と訳す。

 私は、白洲次郎氏は、素晴らしい人だった、と思う。白洲さんが住んだ「かやぶき」の家が、いわゆる武相荘である。武蔵と相模の境にあるので、この名を付けた由。彼は英国に長く生活し、敗戦を予見し、食糧不足を予見し、戦争中にこの家に隠棲し、一農家として暮らす。当時はごく田舎だったのだろうが、今は町田市である。彼は、ケンブリッジ大学を卒業し、英語にきわめて堪能である。吉田内閣の終戦連絡事務局の責任者として、進駐軍(米軍)との折衝にあたる。彼は、占領時代の秘話を多く知っていたはずである。その秘話を、死後30年(あるいは50年)たったら世に出してよい、そういう形で、書き残されたらどうだったか、などと想像することがある。(正子夫人によれば、全部焼き捨てた由)。なお彼は、通商産業省を設立し、戦後の日本の復興に、大きく貢献する。押し付けられた新憲法についても、いわゆる Jeep Letter(ジープの手紙) を書き、抵抗を試みる。「米国の草案は、飛行機で目的地に飛ぶようなもの、日本案は、ジープで山道を行くようなもの、時間がかかり、経路が違うが、目的地は同じ」という、日本案を全く無視するGHQへの、抗議の手紙である。 

 米軍は、日本軍の強さに辟易し、日本が二度と戦争できないように新憲法を作る(改正が極めて困難な規定も含める)。「日本は諸国民を信頼し、一切武力を持たない」と記載する。第九条、「正義と秩序を基調とする国際平和ーーー陸海空軍を持たず、交戦権を認めないーー」。現在の日本の周りの国々を見ると、拉致問題一つとっても、とても「正義と秩序を持つ国々」に囲まれている、とは思えない。日本人の99%は、とんでもない話だ、と思うだろう。

 米国は、この自分が押し付けた新憲法を、すぐ後悔することになる。朝鮮戦争が勃発し、侵入した北朝鮮は、朝鮮半島の大部分を席巻し、日本への脅威が大になるからである。ダラス(国務長官)は、再軍備をと迫る。吉田首相は拒否する。拒否はするが、米軍の日本占領を終わらせるため、ぜひ講和条約を結びたいと思う。それに絡み、警察予備隊をつくる。吉田首相は、警察予備隊は、戦力ではなく、憲法違反にならないと、国会で説明する。警察予備隊は、今の自衛隊の前身である。

 

 国民が未来を考え、判断を下すとき、過去の歴史をひもどくことは、非常に重要なことであろう。