篤姫(あつひめ)と勝海舟と戦争への道

(学士会会報 平成22年5月号)

 

      廣畑 富雄

 

最近のNHKの大河ドラマ「篤姫」は、非常に人気の高い番組であった。 日曜の夜のゴールデンタイムに、ひと際高い視聴率を上げていた。 篤姫は、江戸末期から明治にかけた激動の時代に生きる。分家とは言え、島津家の出であり、亡き将軍家定の妻として江戸城の大奥を統べる。 運命のいたずらから、自分の故郷、薩摩の軍勢に攻められることになる。篤姫、天璋院は、非情な運命に翻弄されながら、ただひたむきに生きる。その篤姫、天璋院の生き方に共感し、元気付けられた人も多かったようである。私はあまり大河ドラマを見ないのだが、「篤姫」は楽しんで見ていた。もっともドラマだから、史実と同じではない。

 

たとえば歴史的に重要な、江戸城の無血開城だが、勝海舟と西郷隆盛との談判が有名である。しかし実はこの会談に先立ち、山岡鉄舟が海舟の書を携え、駿府の官軍の本営に赴き、官軍方の大方の了解を取り付けていた。殺気立った官軍の中を、薩摩弁で叫びながら道を開かせ、鉄舟を先導したのが、幕府がわに捕われていた、薩摩の益満休之助である。海舟は益満に多額の金子を渡し、その記録があるのも面白い。たしか150両、今の金で2,000万円近い大金を渡している。 

 

海舟座談や氷川清話に、海舟の談話が記されているし、詳細な海舟全集も出版されている。海舟によると、会談は2日間、2回にわたって行われた。一日目は和宮の事のみを話した。官軍側が先帝の妹君、和宮の安全に腐心していたのは当然のことである。そして二日目に本題に入った。海舟によると、談判は談笑の間にまとまったと言う。その背景には、西郷と勝との、深い人間的な信頼関係があった。西郷はこの数年前に勝に会い、大久保に書を送り、「――誠に驚き入り候人物にて―――ひどく惚れ申し候」と述べている。

 

海舟は、官軍の参謀が西郷であると聞いて大変喜ぶ。西郷ならば、心が通じると思ったからである。談判では、西郷が海舟の言う事をいちいち信用してくれ、直にまとまったと言う。 また、これが西郷以外の人物であったら、いろいろな難問があって「とても談判はまとまらなかっただろうよ」と言う。これにより、江戸100万の市民の命が助かり、日本の内戦が避けられた。そして統一国家としての、明治政府の基礎が出来たのである。(付記すると、この後官軍方で、西郷が勝の狐にだまされたと、不平を言うものが多かったそうである)

 

あまり言われていない事だが、私は、徳川将軍家の崩壊に、勝の果たした役割は大きいと思っている。彼は幕府ではとても日本を支えきれないと考えた。有力藩が連合して、国を支えるほか無いと考えていた。彼の一番の弟子、坂本竜馬は、薩摩と長州との同盟を取り持つ。坂本の斡旋が無ければ、敵同士であった薩摩と長州の同盟は成立せず、結果として幕府の崩壊もない。ちなみに勝は、神戸に海軍操練所を開き、日本海軍の創設につとめる。しかし倒幕をねらう諸藩の志士達も広く受け入れたため、幕府からにらまれ、操練所は閉鎖させられる。勝も罷免され、江戸で謹慎の身となる。操練所が瓦解したとき、勝は竜馬たちの身柄を薩摩に預けその世話を頼む。ちなみに海軍操練所の跡は、神戸のホテルオークラの近くにあり、その記念碑が建てられている。

 

勝は咸臨丸で米国に渡り、あまりに米国と日本の政治、経済の差に驚き、「とても今の体制ではだめだ。幕府による政治を終わらせ、有力な諸藩による合議政治に移るべきだ。そして門地、家柄にとらわれず、広く人材を登用すべきだ」と考える。竜馬の大政奉還の考えも、海舟の影響が大きい。日本と米国の国力の差として面白いのに、福沢諭吉の記録がある。福沢も米国に渡ったのだが「―――あるとき、狭い一室に閉じ込められた。かような狭い所に閉じ込めるとは何たる事かと怒った所が、その部屋が上に上がって行き、肝をつぶした。エレベーターなど知る由も無く、誠に途方も無い事だと驚いた」と言う。海舟は、彼我の国力の差から「国内での争いは、欧米列強の干渉を招き、インドなどと同様に、日本を植民地にするばかりだ」と考える。そして徹底的に平和路線を貫こうとする。 彼は長州征伐も反対だし、薩摩屋敷の焼き討ちも反対、無論鳥羽伏見の戦いも反対であった。だから幕府の中で、勝は薩長の回し者、薩長のスパイではないかとさえ言われたという。

 

もちろん一方では、彼は幕臣として、幕府と言う体制は無くなっても、徳川家が存続するよう奔走した。彼は当時としては長命を保つ。朝敵とされた慶喜が、明治も半ばを過ぎ、明治31年に宮城に参内を許され、天皇様、皇后様からねんごろなおもてなしを受ける。勝は大変に喜び、これでこの世に思い残す事は無いと思う。そして日記に「我が苦心30年、少しく貫く処あるか。」と記す。国を一つにまとめる、それが彼の悲願だったのである。そして翌年、明治32年の初め、卒然としてこの世を去った。

 

海舟と西郷は、真に心を許した友であった。勝は西郷を大人物とたたえ、また江戸城無血開城に関し、西郷に多大な恩義を感じていた。もし談判が不成立なら、ナポレオンのロシア遠征時に、モスコーが火災で灰燼に帰し、ナポレオンの遠征軍はついに敗北に至った故事にならい、江戸を焼き払い、薩長軍と最後の一戦を交えるつもりにしていた。明治10年には薩摩の旧士族が、西郷を担いで決起し、西南の役が起こる。 明治政府は、西郷と極めて近しかった勝の動向に、細心の注意を払い監視する(勝はそれを用心し、日記にも一切西南の役は記さない。政府に嫌疑をかけられ、弁明書を提出している)。

 

西郷は戦に破れ城山で自刃するのだが、海舟はその死を悼み、わずかその2年後に、逆賊とされていた西郷のために、独力で立派な碑をたてる。それは東京の洗足池のほとり、海舟の墳墓の横に見ることが出来る。碑の表には、西郷が沖永良部島に流されていた時の詩、「―――魂魄留まりて皇城を守らん」が刻されており、そこから留魂碑と称せられる。裏には海舟が碑の由来を記している。「戊辰の春 君は大兵を率い――― 君良く我を知る――君を知る また我にしくは無し」云々と記されている。これは若干長いので、この小文の最後に記す。

 

海舟は、欧米列強に対抗するためには、国内が一致団結せねばならぬ、と考えていた。明治政府は、薩長の政権であり、士農工商の廃止とか、大きな革命を行ったが、挙国一致の政治を望んだ彼には、薩長の藩閥政治は、非常に不満であった。また一方では、国内の団結のために、徳川の旧幕臣の不満が爆発せぬよう、細心の注意を払った。特に西南の役では、毎晩たもとに一杯、金を入れた小さな包みを多くこしらえ、旧幕臣、かっての大奥の零落したお女中などを訪れ金を渡し、家に帰るのは真夜中であったと言う。確かに海舟全集の中の彼の日記を読むと、かって幕臣として位の高かった「何々の守、一家窮乏、餓死に至らんとするゆえ、金300両を貸し遣わす」という様な文言がある。海舟の家には、おびただしい手紙が来たが、ほとんど金の無心であったという。話は飛ぶが、彼の屋敷は東京の赤坂、氷川神社のそばにあった。彼の死後に屋敷の一部は市に寄進され、氷川小学校が建てられた。今は子供の数が減り、廃校になっているだろうが、私が以前(20年前?)訪れたときは、なお小学校として使われ、海舟揮毫の見事な扁額がかかっていた。

 

海舟は、明治政府に非常に批判的であった。その理由は、薩長の藩閥政治であるのみならず、海外に帝国主義的な膨張政策を取ったことである。彼の考えは、欧米列強の脅威に対し、日本一国ではなく、清国、朝鮮国と同盟し、対抗すべきだというものだった。だから日清戦争が始まった事を聞き、大変に驚き、それを憂える詩を作っている。その要点は、兄弟が争って肉を裂き、それを英国やロシアに与えるようなものだ、ということである。日清戦争で日本が勝ち、遼東半島が日本のものとなったが、三国干渉で返還を余儀なくされ、ロシアのものとなった。彼は「それ見たことか」と思うが、建白書を差し出し、「ただ返すのではなく、鉄道を敷いてやり、清国から得た償金をそれに当てたらどうか」と述べている。日清の友好に心を砕いたのである。

 

この小文のタイトルに、「戦争への道」という言葉を加えている。明治政府による日本の大陸への進出、そして日清戦争の勝利、三国干渉による遼東半島の還付、その10年後の大陸の権益を守るための日露戦争の勃発と勝利、さらに同じ流れの上に立つ、昭和に入ってからの満州事変の勃発と満州国の設立、国際連盟からの脱退、中国との戦争の開始、さらに太平洋戦争と続く。この一連の動きは、結局日本の破局につながり、日本が廃墟となって終焉を見る。このボタンの掛け違いの由来は、さかのぼれば日清戦争や、朝鮮の植民地化に基づいているし、これは海舟の最も懸念した所であった。太平洋戦争の日本の破局は、本をただせば日本の大陸進出にあり、明治政府の日清戦争、その延長線上の日露戦争にあった。

 

さて再び、篤姫、天璋院に話を戻そう。明治になり江戸城の外に出た彼女は、海舟を最も頼りにした。面白いのは、海舟と二人で、江戸の、いや東京のあちこちを、見て回った事である。海舟は天璋院を姉だと言って連れて歩く。行った先には、吉原も含まれている。天璋院は、庶民の暮らしぶりを見て、千駄ヶ谷の家で質素に暮らす。田安家から幼くして(4歳?)徳川家を継いだ亀之助、後の家達(いえさと)も、天璋院は質素に育てる。家達は英国に留学し、やがて公爵を授けられ、貴族院議長を30年の長きにわたりつとめる。後の海軍の軍縮会議には、日本代表として出席している。

 

一昨年の大河ドラマ、天璋院・篤姫に関連し、この小文を記してみた。前に触れた、海舟が日清戦争の開戦を慨嘆して作った詩文と、東京の洗足池のほとりにある、逆賊として死んだ西郷のために立てた碑(留魂碑)の裏の碑文を記してみたい。ただし原文ではなく、書き下し文を記している。

 

幕末から明治にかけ、海舟のような偉大な政治家が現れたことは、日本のために誠に幸いであった。「一国は、一人のために興り、一人のために滅ぶ」と言う。国に限らず組織も、一人により興り、一人により或いは滅ぶのかもしれない。

 

日清戦争の開戦を慨嘆して詠んだ詩:

   隣国 兵を交うるの日   その軍(いくさ)さらに名無し

憐れむべし 鶏林の肉   裂きて以て魯英(ロシア、英国)に与う

 

留魂碑(りゅうこんひ)の裏の碑文

  慶応戊辰の春、君大兵を率いて東下す。人心鼎沸。市民荷担。我之を憂いて、一書を屯営に寄す。君之を容れ更に令を下し、兵士の驕傲を戒め、府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめず。是、何等の襟懐ぞ。何等の信義ぞ。今君己に逝く牟。偶々往時、書する所の詩を見るに、気韻高爽、筆墨淋漓、洸として其平生を視るが如し。欽慕の情自ら止む能わず。石に刻んで以て記念碑と為す。嗚呼君能く我を知る。而して君を知るも亦我に若くは莫し。地下若し知る有らば、それまさに髯を掀いて一笑すべき乎。

       明治126月           友人海舟勝安芳誌